[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
池田千尋さんはここ数年間ずっと気になっている映画監督である。直接の面識はないが同郷でもあり同じ学校で学んだ後輩という意味であったり、商業主義一辺倒にならない映画制作活動へのニュートラルな距離感においてもたいへん気になる存在である。(将来、何かの機会でお会いできたりするような偶然が起こることを期待している)
直近で彼女らが立ち上げたプロジェクトである『tsunamifilmproject(ツナミフィルムプロジェクト)』も気になるプロジェクトである。(以下は同プロジェクトにおいて脚本(ホン)の公募についてコメントしている池田さん)
最近、縁あって渋谷の映画美学校にて行われたショートフィルムのお披露目試写会へお邪魔させてもらった。その作品の監督でもあり、私の職場の後輩でもあった映画・映像監督の三木孝浩さんと会場で久しぶりに再会を果たした。
三木さんと同じ大学で同じく映画を志した(微妙に時期はずれているものの)池田千尋さん(監督)のことをなんとなく思い出していた。しかしながら、池田千尋さんの映画へのアティテュードはある意味で三木監督のそれとは対極的であるとも言える。『渋谷のミニシアター閉館~ミニシアター文化の終焉』なんてニュースが取り沙汰される昨今であるからこそ、そんな池田千尋さんの作品がひとりでも多くの人へ届くことを期待している。
Disney PIXAR社の最新映画『カールじいさんの空と飛ぶ家』の主人公『カールじいさん』の風貌が修司氏に極似で驚いた。
本映画の原題は『UP』。主人公のカールじいさんは白髪に四角いメガネ、四角い顔。短い首とどうみても修司氏なのだ。他人事ではないのでお正月にでも観にいってみたい。
(写真は、前売りチケット特典のカールじいさんマスコット)
内容は『捜索ご要望のありました絵画作品は発見できませんした。半年という捜索期間が終了した為に(=時間切れの為)お探しの絵画の捜索は中止させて戴きます。あしからず』といった感じであった。(適当に意訳してあります)
年初、氏の若かりし頃の作品がアメリカへ渡っているという事実を思い出させたのは、他でもない妻・香代子さんであった。2009年1月末に故・後藤修司特集という企画で磐田市のコミュニティFM番組へ出演させて頂いた際、香代子さんの口からアメリカへ渡った幻の作品の件(くだり)が話されたのだった。
そういえば、かつて本人の口からもその話は聞かされたことがあった。
あまり自慢話はしない人であった氏がかつて珍しく誇らしげに語っていたそのアメリカへ渡った作品は果たしてどんな作品だったのだろう?その作品の写真すらなく全く手がかりがない。唯一の頼りは香代子さんのおぼろげな記憶だけである(在りしの本人曰く、傑作だったらしい)
果たして、氏の作品がアメリカへ渡ったのは、どんな、経緯だったかというと…
今をさかのぼること40年以上前、場所は当時氏が住んでいた静岡県清水市。まだ若かった頃の修司氏の絵画作品が清水市の姉妹都市である米・ストックトン市へ友好の「しるし」として当時の清水市長さんから贈られストットン市の市長室の壁に展示された。といった感じだったらしい。
作品は恐らく切り絵ではなく彼の作品初期から長く創作を続けていた定番である透明水彩画であろう。
余談ではあるが…
当時の一ヶ月の給料のウン回分程度の高額なギャラを頂いたとか頂かなかったとか。実は、その作品は東京で開催されていた大きな展示会へ出展しようとしていた位の出来だった。もしくは、実際に出展して素晴らしい賞を受賞した作品だった。そうだ。
そんなこともあり、2009年1月、初めての展覧会を開催した頃に私が慣れない英文でe-mailでストックトン市へ絵画の捜索とデジタルカメラで写真を撮って送ってほしい旨のリクエストをしていたのであった。あれから半年以上の月日が流れたことになる。
結局、あまりに古いお話&情報のディーテイルがおぼろげで手がかりにならない。(例えばどんな絵だったのか?サイズは?など)という理由で探そうにも探せないのであったのであろう。偶然でもその作品が見つかり写真画像でも見せてもらえたらドラマティックだったが、そんなに世の中上手くいかないようだ。(実際は見つからないほうがイマジネーションが拡がるのであるのだが…)
実は、平行して現在は静岡市・清水区となった同市へも同様の照会を依頼しているのであるが、状況は米・ストックトン市と同様の様子である。彼らからも米国へ問い合わせてみるような経過のご報告を頂いている。
ともあれ、ヒアリングできた幻の作品情報をメモしておこう。
・サイズは…大判の透明水彩画の作品
・モチーフは…清水港もしくは富士山。もしくはそれら両方の収まった構図の風景画
・時代は…当時の清水市長さんは佐藤虎次郎氏(1965.8.20~1977.8.19*)
・背景は…清水市と米・ストックトン市の姉妹都市の友好のしるしとして清水市より贈呈された
※Wikiによる情報…長いですね。さすが、保守的なエリアですな
7月末から8月にかけて、お墓への納骨~一周忌~初盆と立て続けに法要関連のセレモニーが実施された。特に初盆では大掛かりな祭壇と飾りのセレモニーであった(これは地元の風習であろうか?)
一年前を振り返ると…あまりに急逝だったこともあり、彼の死を当初は受け入れることができなかったが、今はやっと理解できるようになってきた気がする。(実に亡くなる前日までピンピンしていたのだ)
実は、この死を一番理解できていないのは当の本人・修司氏であった。と私は思っている。昨年8月、急逝の知らせを受け急ぎ帰省して、なきがらと一晩を共にした際、その傍らに氏の魂がいる気配を感じた。『本人が一番驚いているんだなぁ』となんとなく思ったことを覚えている。
奇妙なお話に聞こえるかもしれないが、これ事実。霊的なお話は、本やテレビではなんだか怖いお話のイメージがあったが、親族のそれは自然で別に不思議でも怖いものでもなく、ただただ常識を超える感覚として感じた事実であった。(普段まったく霊感のない私であるが、通夜前にはなきがらの傍にいる氏を感じた。建てつけの悪い実家の造りのせいでもあるが、あり得ない場所から足音やら人の気配をも体感した)
没後この一年を振り返ると、本ブログの立ち上げに始まり、3回の展覧会、2種類の画集の編纂。海外(米、ストックトン市)へ贈呈されたとされる過去作品の捜索といろいろなことをしてきた。完結していないこともまだまだあるが、このあたりで一段落としようと思う。アトリエの作品の整理もゆっくりとマイペースで進めていくつもりだ。
引き続き、展覧会への出展のご依頼などは喜んでお受けいたします。ご連絡はこちらへ
(追伸)
お盆前に発生した静岡エリアを震源とする地震(震度6を記録)に際しましては、もんぜん・輪島の展覧会でお世話になったT氏からお電話を戴きました。
#ありがとうございました。みんな無事にやっております。
※氏のお墓は静岡県磐田市城之崎にある福王寺(曹洞宗)に建立されました
2009年7月22日(水)46年ぶりの天体ショー(皆既日食)に日本中が沸いた。
写真は静岡在住の友人から届いた写真である(携帯電話で撮影)首都圏をはじめ日本全体が朝からの生憎の曇り空であったが、曰く『薄い雲が丁度日食グラスの役を果たして日食観察するには丁度良かった』そうだ。
私自身も前もって日食グラス(*)を購入して準備万端の状態でこの日食を待ち構えていたのだが、残念ながらこの日食をリアルタイムで観察することができなかった。(長~い会議に拘束されている間に終わってしまった。*日食グラスは、前週末に数店をはしごしてやっと東急ハンズ渋谷店にて入手したのだった…多くのお店で皆既日食人気の為に売り切れていたのだ)
前回の皆既日食は46年前ということなのでその時は私自身はこの世に生まれていなかったが、小学校の時に部分日食があり当時はガラス板にろうそくのススをつけて作った手作りの観察用ツールをつかって小学校の校庭から空を見上げたことを覚えている。
自然現象というか…この手のイベント(特に天体現象)に私自身は強く惹かれる。もともと天体系とそれにまつわる神話が好きということもあるのだが、生まれ育った環境(=修司氏の影響)にもその理由(わけ)があるのかもしれない。などと、今、自身の過去を振り返ってみてそんな風に思うのである。
自然科学を特別なこととしてではなく、ごくごく身近で素朴な興味としていつも普通の視点で観察&分析する人それが同氏だった。(白衣を着た研究者や学者や先生というよりもステテコ姿にぞうりを履いた田舎のオッサンというようないつも地味な体裁でしたが平易な目線で自然科学を解説してくれました)
氏は美術の作者(作家)として捉えられること多いが、理科の教諭でもありそこで培われた観察眼と顕微鏡等を覗きながら書上げたスケッチやデッサンこそが実は彼の絵の世界へのルーツだったのかもしれない。以前、切り絵の個展のテーマとなった花シリーズなどは、彼と愛犬の散歩コースであった安久路川沿いに自然に自生している草花達がモチーフであった。
予想を遥かに超える移動距離。そして辿りついた先にあったのは勿体ない位の素晴しい環境。そして展覧会の企画者Tさんとの初対面。(今まではメールと電話でしか連絡を取り合うことができませんでした)そこで伺った貴重なお話と修司氏の作品以外の数々のきりえ作品との出会い。などなど、とても貴重な体験でした。
小松空港で予約していたレンタカーへ乗り換えて金沢の街へ移動。JR金沢駅で名古屋経由で来た母と合流。金沢の街で食事をした後、一路高速(バイパス)でもんぜん文化村へ向かった。バイパスを降りて海辺の道をひたすら走ったあと、山間の道へ。
山間の狭い道をしばらく行くと「もんぜん文化村」の看板が見えた。看板の案内に導かれるまま道を進むと急に景色が広がり白い壁の建物がみえた。手入れの行き届いた美しい芝生の広場をすり抜けて道路を更に進むと駐車場についた。自動車から降りると澄んだ空気と野鳥の鳴き声が我々を迎えてくれた。自動車での移動は約2時間。
程なく、建物の中から今回の展覧会の企画者である輪島市・教育委員会のTさんがお迎えに出てきてくださり、我々は建物の中へとお通し頂いた。
・もんぜん町がどうして切り絵の街なのか?
・もんぜん文化村の施設のご説明
・東京・両国にある日本きりえ協会のお話今回の企画展の苦労話。
・今回の企画の苦労話
・静岡と石川の地震のお話
などのお話を「ゆず」の香りのするお菓子とお茶を頂きながら伺った後、展覧会を拝見した。
・常設のきりえ作品のホール
・後藤修司氏による静岡県の風景作品のホール
・同時開催されていた地元の作者「森岡善郎」さんの作品のホール
都合3つのホールを順に味わいながら、ゆったりとみせて頂いた。氏の作品展示ホールには作品展示の他に静岡の観光紹介やポスターも展示されていました。6月に開航した静岡空港のポスターも。
4月から7月までの間、以下4人きりえ作家の作品展が開催されていたのであるが、そのすべてが遺作展であった。
・金子静枝さん
・中原佳代さん
・森岡善郎さん
・後藤修司
きりえ作家の高齢化が進んでいるのか?と思い質問してみると・・・・
ここ、もんぜん文化村では児童へのきりえの体験教室なども開催しており、次の世代へ技術を伝承する試みを続けていらっしゃる。とのことであった。実際、もんぜんの次にに立ち寄った輪島の漆器職人のお店でも、もんぜんエリアの小中学校のカリキュラムの中では切り絵への取り組みがさかんでチビッコ作家もたくさん存在することを伺った。
もんぜんでの展示会が近づいて来ました。目下、もんぜんへの旅程を思案中。私にとってはもんぜんや輪島、そして金沢を含む石川県のことを殆ど知らない。行ったこともない場所なのだ。そういえば高校部活の先輩で金沢大学へ行かれたかたがいたが、久しくお会いしていない。全く関係ないかもしれないけれど、佐渡島へはEarth Celebration(English)という音楽フェスを体感しに行ったことはある。
もんぜんは輪島市にあり輪島市は石川県にある。石川県には空港が2つ(小松空港と能登空港)あり、鉄道網では輪島までスマートには接続していないようだ。いずれにしても最寄駅や空港からはバスやタクシーへ乗り換え40分から2時間半ほどの時間をかけて輪島を目指しそこから更にタクシーで30分程の時間をかけてもんぜん町へ移動することが必要そうだ。
東京からそこを目指すには羽田から能登空港ルートの空路が最も近いと予想される。所要時間は約1時間。また、静岡からの場合は名古屋経由の鉄道ルートで金沢を目指し、そこから高速バスで2時間半で輪島まで移動。そこからまた車でもんぜんへというルートとなるであろうか?(6月初旬に開港した静岡空港から小松空港への便は7月に就航開始予定。これが繋がるともっと静岡と石川は近くなる)
個人的には空便ではマイレージの関係でANA便が好ましく。鉄道ルートでは「しらさぎ」や「サンダーバード」というヨーロッパの鉄道を思わせるセクシーな特急列車にも惹かれる。といっても、私は鉄道マニア=いわゆる「てっちゃん」ではありません。面白いことに東京からの鉄道ルートは新幹線で名古屋経由をレコメンドされたりする。それほど、陸ルートは近くないということだ。
仕事の都合で休めても1泊分の休みをとるのが限界なので移動時間の短い空路が好ましいと考えている。更に「飛行機に乗ったことがない」という修司氏の妻・香代子さんにも飛行機へ乗ってもらう良い機会ともなるだろう。
飛行機に乗って離・着陸するときに窓の外にみえるパノラマみたいな町並みを眺めるにつけ、私は、再確認するのです。『我々は大気の海の底にへばりついて生活をしている』事実を。視線が変わるというか、我々が日々の生活でくよくよしたりしているスケール感とは全く違うマクロな世界感を感じる訳(別に宇宙飛行士でもないけど)。飛行機の離着陸の意外と原始的なんだよなー。という加速・減速感のプチ恐怖からの開放の瞬間に感じるそんな感覚。修司氏の妻でありも我が母でもある彼女に感じて欲しいと考えたりするのです。まだ、伴侶の死を昇華できない彼女に。
しかしながら、彼女は飛行機は怖いらしくあまり気乗りしない雰囲気。また彼女が疎開していた第二の故郷でもある和歌山の新宮市の友人や金沢近郊に住む友人ともこの機会に同行・再会したいらしく、名古屋周りの陸路で金沢経由ルートを希望している。目下それらを有機的にブレンドする術を模索中である。同時に氏の死亡と同時に彼女へ持たせた携帯電話の使い方を特訓中(フツーに電話に出たり話すことすらできないのだ)
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
静岡県 磐田市生まれ 1933年8月13日(昭和8年)~2008年8月1日(平成20年)享年74歳
故郷、静岡の自然をテーマに透明感と力強さを特徴とする水彩画、切り絵、彫塑作品を数多く作成した。そんな彼の情報を中心に遺族の手により、ゆったりと運営していきます。